ハメド・カルザイのプロフィル

アル・ワタン(サウジアラビア) 12月11日
「アル-ワタン」紙は、合衆国とヨーロッパの、情報に通じた外交筋から、アフガニスタン暫定政府首班ハメド・カルザイとアメリカ人との内密の結びつきに関する、新たな重大な情報を入手した。カルザイは1980年代の反ソ連聖戦(ジハド)の時期からアメリカ人たちと協力していて、CIAとも関係のあることが、それらの情報から確証される。また、CIAとの連携と協働のもとで、タリバン政府に抗する民衆蜂起に火を点ける目的で、大規模な擬装作戦を実行していたことも。同じ情報源によれば、モラー・モハンマド・オマールの政府を内部から崩す上で、ブッシュ大統領の政権がいちばん頼りにしていたのが、カルザイであった。

同じ筋はアル-ワタンにこうも言っている:カルザイが暫定政府の首班に選ばれた後、ブッシュ政権はカルザイの政権に対し、いかなる外国の介入からも妨害からも守り抜き、新任務に成功するよう援助すると「約束」した。しかし同じ筋はまた、12月22日にアフガニスタンの首班という役を公式に引き受けることになるカルザイは、「アメリカの脇役あるいは教えられた通りに実行する男」ではなく、「真の愛国者」であると言っている。

ハメド・カルザイ(44歳)は、アフガンスタンの多数派となったパシュトゥン族上層部に影響力のある、名家の出身である。祖父は君主制時代の議会で演説でならした。父も議員で、モハンマド・ザヘル・シャー王の治下に、いくつかの重要なポストを歴任した。ハメド・カルザイのアメリカ人たちとの関係は1980年代中ごろに始まる。当時、ソ連に対する聖戦のさなかにあって、彼はパキスタンに住んでいた。当時の彼は仲介役で、アフガンモジャヘディンの諸集団とアメリカ人たちとの間にたっていた。そうやって、ムジャヘディンに武器や資金が流れるようにしたのである。カルザイのCIAとの関係が始まるのもこの頃からで、アメリカ政府のアフガン関係の作戦は主にCIAが担っていたからである。

カルザイとアメリカ人たちとの関係はその後も途絶えることなく続いている。これに並行して彼は、イギリス人やその他ヨーロッパを初めとする各国との関係を築いている。特に、親モスクワのナジブラ政権が倒れ、モジャヘディンがアフガンの政権を掌握した後、1992年に外務副大臣となって以後はそうであった。彼はこのようにアメリカとのつながりがあるが、またタリバンの支援もし、そのことに矛盾は感じていなかった。ボルハノッディン・ラッバニが統治に失敗し、アフガニスタンに今日見られるような分派闘争と内戦が起こったが、これに終止符を打ったタリバンの政権掌握は、アメリカ人たちが(パキスタンを通して内密に)支援していたのである。当時。カルザイは合衆国の巨大石油グループであるユノカル社の顧問をしていた。同社はタリバン運動を支援し、中央アジアのイスラム諸共和国からパキスタンまで、アフガニスタン経由で油送管を建設しようと計画していた。しかしカルザイのタリバンとの関係は長くは続かなかった。1996年にタリバンが政権を掌握してまもなく、カルザイはタリバン運動から遠ざかり、国連大使への指名も蹴ってしまった。

また同じ情報源によればカルザイがタリバンと敵対する動きをするようになったのは1997年で、「ウサマ・ベン・ラデンとそのアラブ人部隊とがアフガニスタンを占領し、国政の方針決定者になってしまっている」と、合衆国の役人や外交官と語る際に強調し始めるのも、その頃である。武装アフガン運動への具体的な支援をするようにと、アメリカに強く働き掛けはじめるのもこの頃で、「惨事の起こる前に」タリバン政権を内側から倒し、ベン・ラデン一味を、その運動が厄介払いすることになっていた。1999年からカルザイは、アフガニスタンに内密に入国して、アメリカとの緊密な連絡と協働のもとに、タリバン政権に抗するパシュトゥン上層部を中心とした民衆蜂起を焚き付けたいという希望を表明していた。しかしアメリカはこの提案を蹴った。そういう拒絶にあいはしたがカルザイは、パキスタンに居住したままそこを拠点として、パシュトゥン族の族長たちや指導者たちに接触し、タリバン政府への反抗を説いた。カルザイのこういう行動がもとになって、父のアブドル・アハドは1999年に武装したタリバンによって暗殺されている。

急展開があったのは9月11日のテロ作戦と、タリバン政府を倒しウサマ・ベン・ラデンをアル-カエダ一味もろとも消すという、ブッシュ政権の決定の後のことである。ハメド・カルザイはこの機会に一つのプランを立てて、合衆国の役人たちと協議している。このプランによれば、カルザイは仲間たちとともにアフガン南部に潜入し、カンダハル、ザボル、ウロズガン、ヘルマンドなどの諸地方でパシュトゥン族の族長や指導者たちと会い、タリバン政府に抗する武装人民蜂起を組織するよう働き掛ける。それと並行して、拡大アフガン国民議会(ロヤ・ジェルガ)が召集され、タリバン政府にとってかわるアフガン新指導部が形作られるのだ。

カルザイは前国王モハンマド・ザヘル・シャーから、このプランへの支持を取り付ける。CIAなどのアメリカ人たちもこのプランへの支持を口にし、タリバンと決別したアフガン人たちには武器を送る用意が整っていると言った。しかしアメリカは、カルザイに待つようにと言い、ゴーサインを出すまではアフガン南部に行かないように求めた。そしてまさにゴーサインは出たのだった。合衆国が戦争を始めたその24時間後、10月8日にハメド・カルザイと仲間たちは密かに、アフガン南部に向けて出発した。カルザイのこの行動は合衆国の役人との協働であり、合衆国国防長官ドナルド・ラムズフェルドやCIA長官ジョージ・ティネトも承知し、同意していた。

アフガニスタン入国後のカルザイは、パキスタンやアフガン北部に駐在しているCIA職員と日々連絡をとっていた。パシュトゥンの族長や指導者たちとの会合のあらまし、彼の動きや行く先とルートなど、電話で逐一、CIA職員たちに報告していた。それでタリバン勢力の攻撃を受けても、合衆国軍が介入して救出できるわけだった。10月21日にアフガン人の司令官アブドル・ハクがタリバン勢力に殺された。そこで、ムラー・オマールの政府に抗する蜂起を起こす任務についていたカルザイに対し、合衆国は特殊部隊を派遣して彼を護衛し、防御しようと申し出た。カルザイはこれを拒絶している。11月初めにタリバン勢力はカルザイが部下たちと駐在していた場所を攻囲した。カルザイはアメリカ人と連絡を取り、アメリカはヘリコプターを急遽繰り出してカルザイを救出したのだった。

カーブル陥落の後、カルザイはアメリカ人たちと連携して、モラー・オマールや側近たちと密かに接触した。タリバン指導者やその軍が武器を置き、権力を公式に移譲するように求めた。しかしモラー・オマールはこれを撥ね付けた。オマールが降伏したのはやっと先週になってのことで、ようやく投降しカンダハルなどから軍を引き上げることになったのだった。

また同じ情報源がアル-ワタンに述べたところでは、ハメド・カルザイはたしかにアメリカと強い、そして特別な結びつきのある人間だが、だからといって「アフガニスタンにいるアメリカの手の者」ではないし、指示の通りを実行する、アメリカの脇役でもないそうだ。それらの情報源によればカルザイは「真の愛国者で、熟達した政治家かつ外交官です。現実感覚と中庸、開放的で、紛争を解決するのに対決や武力に訴えるのではなく、対話や交渉、場合によっては取引によるのを好むが彼の特徴です。」ということになる。12月22日に公式に任務に就いての後、彼のいちばんの懸案となるのは国民和解の達成であり、アフガン人の間にあるさまざまな分派や諸勢力が平和に共存できる形を見つけ出して、治安と安定を達成し、アフガニスタン再建の道を踏み固めることである。

同じ情報源によれば、ブッシュ政権はハメド・カルザイに対し、パキスタン、イラン、ロシアをはじめとする近隣諸国が、新生アフガニスタンの指導者カルザイを助けるよう、そして妨害をしないよう、促す方向で積極的に動くと約束した。合衆国政府はまたカルザイに対し、アフガニスタン新政府を支え、アフガニスタンの地にウサマ・ベン・ラデンやモラー・モハンマド・オマールの経験が繰り返されないための、合衆国を初めとする国際社会の、必要なあらゆる「政治的、外交的、軍事的、治安的支援」を得られるようにすると約束した。

海賊訳:Massa
この記事はサウジアラビアのアラビア語紙「アル-ワタン」のもので、「BBCモニタリン」掲載の英訳から重訳した
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