| 家族の肖像T 「黄昏」 |
かちかちかち・・・ 喫茶ロムレットの中ではアンティークな壁掛け時計だけが静かに時を刻んでいく。 差し込む日差しは既に西に傾き、暖かなオレンジ色に世界を染め上げ、長く尾を引く黒い影と鮮やかなコントラストを描いている。 まるで一枚の絵画のような静かな世界だった。 その中ではこの家の主である伊藤正樹と乃絵美の兄妹だけが、言葉を交わす事も無く、静かに佇んでいる。 けれども二人には何処か魂が抜け落ちたようで居て、満足げな不思議に満ち足りた笑顔が浮かんでいた。 それはちょうど何か一つの仕事をやり遂げた者のように見えたかもしれない。 「乃絵美・・・コーヒーを煎れてくれないかな」 「うん、ちょっと待っててね」 正樹はいつもよりも丁寧に支度をする乃絵美の姿を目で追う。 こんな風に二人っきりで過ごす時間はとても久しぶりのような気がする。 と言うよりは今までがあまりにも慌ただしすぎたのかもしれない。 程なくして、乃絵美は正樹の居るテーブルの前に二組のカップを置く。 けれども二人はただ立ち上る湯気を物憂げに眺めるだけで、カップには手を伸ばそうとしない。 ただ気怠い空気だけが流れてゆく。 「・・・終わっちゃったね」 「・・ああ」 「・・・長かったような気もしたけれど、短かったかな?」 「そうだな」と正樹が言いかけたとき、からんからんと軽やかな音と共にロムレットの入り口の扉が開いた。 「あ、済みません、今日はお休みなんですが・・・あっ、菜織ちゃん」 「もう二人とも何黄昏ちゃってるの」 乃絵美が腰を浮かしかけた時、扉の向こうから現れたのは、正樹と乃絵美の共通の幼なじみの氷川菜織だった。 「菜織ちゃん、今日は本当にありがとう」 乃絵美はいつもの様にぺこりと頭を下げる。 「もう乃絵美ったら、今更他人行儀は無しよ、これからはお互いに身内同士じゃないの」 「そう言えばそうなんだよね。でも菜織ちゃん今頃どうしたの?」 「何だか家にいても間が持たなくってね・・・そうしたらアンタ達何しているのかなって、無性に気になっちゃってね。こうしてわざわざ出向いて来てあげたって訳」 「お前らしいな」 菜織は正樹の言葉には応えずそのまま二人が居る一角に腰を下ろす。 「でも、調度良いところだったみたいね。 乃絵美、折角だからあたしにもコーヒー貰えないかな?」 「うん、ちょっと待ててね」 3つ目のカップが運ばれてくると、3人はしばし無言でカップを傾けた。 ややぬるまったコーヒー。 西日が射す店内。 白いはずのカップはオレンジ色に染まっている。 菜織が重い口を再び開いたのは、3つのカップが空になってからたっぷり5分は経った後だったろうか。 「・・・でも本当に終わっちゃったって、感じね・・・ 何だか心の中にぽっかりと隙間が出来たみたい」 「そうだな・・・」 正樹が物憂げに応える。 「でも考えてみれば本当に不思議ね。 アタシ達3人が今ここでこうして居るなんて・・・ 高校生の頃には想像もできなかった・・・ 一体、始まりは何時だったのかな?やっぱりあの日なのかな? 乃絵美が学校で倒れた時・・・」 「おい、菜織、その事はもう」 何時になく強い口調の正樹に菜織は一瞬乃絵美に向けた視線を伏せる。 「あっ、ごめん乃絵美、辛い事思い出させちゃったかな?」 「ううん、もう昔のことだから・・・ 今はそれほど気にしていないよ」 「でもあの時、乃絵美が保健室に運ばれて来たとき、正樹の狼狽えぶりは見ちゃいられなかったな・・・」 ・・・乃絵美っ!乃絵美っ! しっかり!しっかりしろ! お願いだから目を開けてくれ! 頼む!頼む! 俺を一人にしないでくれ!! お願いだ・・・ 瞳を伏せた菜織の脳裏にはその時の正樹の声が今でもはっきりと残っている。 あれは・・・そう、まるで母親を失いかけた幼子のような悲痛な叫びだった。 乃絵美はちょっと沈んだ表情を浮かべる。 「私は・・・お兄ちゃんが走っているのを見ていてグラウンドで倒れた後は、救急車で病院に運ばれるまでずっと意識がなかったから、その辺りのことは全然憶えていないよ・・・」 「そう・・・でも乃絵美にも一度見せたあげたかったな・・・」 「お兄ちゃん・・・」 『本当?』と言う表情で乃絵美は兄を見つめた。 正樹は無言で頷く。 「今でも俺はあの時の事ははっきりと憶えている・・・ いつも一緒にいたお前が・・・乃絵美が、居なくなってしまうと言うことが俺には途轍もなく恐ろしいことに思えたんだ・・・ もしこのまま乃絵美が居なくなってしまったら、俺は一体これからどうすれば良いんだ? どう生きれば良いんだ? 俺の生きる意味は有るのか? ずっとそんなことばかり考えていた・・・」 「それだけアンタ達二人の絆は強いって事よね・・・ と言うよりはアンタ達はお互いに必要な存在なんだって事かな?」 「でも・・・今から思えば私は多分運が良かったんだなって思う・・・ あの時は本当に辛くて、悲しかったけれど・・・ 女の子じゃなくなってしまって・・・ 赤ちゃんが産めない身体になってしまったけれど・・・ まだこうして生きていられるから・・・」 「うん、きっとそうなんだよね・・・ でも、乃絵美が手術を受けて退院した後、正樹が『ずっと乃絵美と一緒に居る』って言った時は本当に驚いた・・・」 俺は一生結婚なんかしない・・・ 乃絵美を一人には出来ないから・・・ 俺はずっとこのまま乃絵美の側に居る・・・ 正樹が二人の幼なじみに語った決意。 だが今から思えば菜織と真奈美に語った正樹の言葉は「呪い」となってしまったのでは無いか? 乃絵美、正樹以外にも、菜織、そして成瀬真奈美にもその呪縛は大きくのし掛かったしまったのではないか? その疑念を菜織は20年以上経った今でも振り払うことが出来ないで居る。 「あんな事を聞かされたら、もう誰もアンタ達の間に入る事が出来るなんて思わないでしょうからね」 「・・・菜織ちゃん」 「あっ、ごめん・・・嫌ね、歳を取るとどうも愚痴っぽくなっちゃって・・・ でも・・・真奈美は違った・・・」 「真奈美ちゃん・・・」 「あの子は自分自身の想いを捨てきれなかったから・・・ 小さな頃から心の支えにしていた想いをどうしても忘れることが出来なかったから・・・ きっと、あの子には乃絵美に正樹を奪われた様に思えて仕方がなかったのね・・・」 菜織は大きくため息を付く。 言葉にしては見た物の彼女自身が語った言葉は、少なからず自分自身が心の奥底で感じていた事に違いないのだから。またそれが分かるから菜織自身、自分で自分が嫌になる。 本当ならば自分の人生を「妹」に捧げる決意をした正樹のことを見守り続けていたいという願いも有るのだから。 しかし現実には人は歳を取り、子を産み、親となる。 それ自体は自然なことなのだが・・・ 菜織は正樹を見つめる。 「・・・それで正樹? ホントの所、真沙美ちゃんはあなたの娘なの? 今更、アタシに嘘は無しよ」 「・・・お兄ちゃん・・・」 「違う・・・ 真沙美は、あの子は俺の娘じゃないよ・・・ 間違い無く、柴崎と真奈美ちゃんの娘だ」 「じゃあ正樹と真奈美の間には・・・」 「何度か誘われたことがあるのは本当だ。 でも俺と真奈美ちゃんの間には何も無かった・・・」 「そう・・・なんだ・・・ 結構、噂にはなったんだけれどね。 結婚直前の真奈美がアンタと朝帰りしたって言うのはね・・・」 「でも俺は、何もしちゃいない・・・ いや、本当は何もできなかった・・・ あの時だって・・・ 俺はあんな彼女を抱く事なんて出来なかった・・・」 「それじゃ、あなたが真沙美ちゃんを引き取ったのは・・・」 「上手く言えないが、とにかく放ってはおけなかった・・・それだけだよ・・・ 実の父親に認知もされず、身寄りも無く独りぼっちになってしまった、あの子を見捨ててはおけなかった。 ただそれだけだ」 「でもそれが贖罪のつもりだったと言うのなら、それは見当違いよ。 真奈美と柴崎君が上手く行かなかったのはあなたの責任じゃないもの。 誰のせいでも無い。あの二人だけの問題なんだから・・・ 聞いた話じゃ、真奈美もアンタとのことははっきりと否定も肯定もしなかったって言う話だし」 「・・・その気持ち、私には少し分かるような気がする・・・ 真奈美ちゃん、嘘だと分かっていても信じていたかったんだと思う・・・ 自分が一番好きな人の赤ちゃんを身籠もったんだって・・・ 例えそれが本当は許されないことだって知っていても、信じていたかったんだと思う・・・」 「乃絵美・・・あなた・・・」 「うん・・・私もきっと同じだから・・・」 乃絵美の言葉の持つ意味の重さに菜織は言葉が無かった。 と、同時に乃絵美を襲った不幸は結局の所、真奈美と乃絵美という二人の少女の人生そのものを入れ替えてしまったのではないか?そんな疑念がふと沸き上がる。 「真沙美ちゃん・・・本当に可哀想だった・・・ 真奈美ちゃんが亡くなって独りぼっちになってしまって・・・」 「健一君も真奈美のご両親も、飛行機事故亡くなっていたしね・・・」 「健ちゃん達が亡くなった、真奈美ちゃんの結婚式の直前だったんだよね・・・」 「残された親族の間で、真沙美ちゃんは邪魔者扱いされて・・・」 「俺はあの時の、見苦しい押し付け合いを見ちゃいられなかった」 「でもアタシは・・・あの時の正樹は本当に格好いいと思ったよ」 「私も・・・やっぱりお兄ちゃんだなって、思った」 「でも、その後の乃絵美と正樹は良くやったと思う。 真奈美の遺産目当てだの、やっぱり隠し子だったんだとか色んな事を言われ続けたけれど、真沙美ちゃんをちゃんと育て上げたんだものね。 特に乃絵美は本当の親子以上に親子らしかった位だもの」 菜織の言葉に乃絵美は静かに首を振る。 「・・・私、みんなが思っているような、そんな善人じゃないよ・・・ 私は・・・真沙美ちゃんが、ひょっとしたらお兄ちゃんの娘かも・・・ そう思ったから、真沙美ちゃんの母親になろう、ってそう考えただけだから・・・ 私、私、あの子に『お母さん』って呼ばれるたびに、本当は辛かった・・・ 私を慕ってくれてたあの子を騙し続けているような、そんな、そんな気がして・・・」 乃絵美は伏せた顔を思わず両手で覆う。 正樹は妹の肩をそっと抱き寄せた。 「乃絵美・・・お前が自分を責める必要は何もないよ・・・ 真沙美は、あの子は自分自身で『伊藤』の家の娘であることを選んだんだ・・・ お前を『母』と認めたんだ・・・ 乃絵美はちゃんと真沙美の母親を演じきったんだ。何も恥じることは無い」 「・・・お兄ちゃん・・・」 「乃絵美、もう良いじゃない。 真沙美ちゃん、結婚式でちゃんと言っていたじゃない。 最初、どうしても馴染めずにこの家を飛び出したとき、雨の中をずっと自分を待っていてくれた乃絵美が本当に嬉しかったって・・・ その後、風邪を拗らした時、付きっ切りで看病してくれたって・・・ 自分が目を覚ました後、疲れていたのに作ってくれた朝ご飯・・・あの味は一生忘れられない・・・ あの時、本当に自分は愛されているって言うことに気が付いた・・・ だから、自分もそう言う風に子供を愛せる母親になりたいって・・・ 今時、子供にそこまで言って貰える母親なんて他には居ないわよ。 結局、血が繋がっているかどうかなんて、案外どうでも良いことなのかもね。 自分が誰と繋がっているかは自分自身が決めれば良いことなのかもね」 菜織はそう言って乃絵美に笑顔を向ける。 乃絵美も正樹の胸でしゃくり上げながらも、菜織にうんと微笑んだ。 「でも、本当に嘘みたいな話ね。 アタシの息子がさ、真奈美の娘と・・・それも正樹と乃絵美が『両親』だった子と結婚しちゃうなんてね・・・ 結局、アタシが大切にしている物はみんな乃絵美に取られちゃうんだよね・・・ 真奈美もウチの子も・・・正樹も・・・」 「菜織ちゃん・・・」 「別に乃絵美が悩むようなことじゃないわ。 アタシはもうしょうがないって諦めているから・・・ それよりも正樹、乃絵美・・・アンタ達気付いている?」 「何をだ?」 菜織は、やれやれという表情で二人を見つめる。 正樹は乃絵美を胸に持たせかけたままその肩をしっかりと抱いたままだった。 そして乃絵美の手を正樹はしっかりと握りしめている。 それは何処から見ても仲睦まじい「夫婦」の姿だった。 「ここまで鈍いともう犯罪的よね・・・ いい加減気付きなさいよ。アンタ達って何処から見ても理想的な夫婦なんだって事に」 菜織に言われて正樹と乃絵美は、えっ?!という表情で互いの顔を見つめ合う。 「正樹と乃絵美ってずっと昔からそうだったじゃない・・・ アンタ達ってきっとずっと小さな時から夫婦だったのよ。 アタシの出る幕なんて最初から無かったって事ね・・・ 確かにおかしいって言えばおかしいことだけれど、アンタ達は立派に両親として真沙美ちゃんを育て上げた・・・ 親としての勤めはちゃんと果たしたんだから、後の人生は自分達の為に過ごせばいいじゃない。 誰もアンタ達に文句なんて言えないはずよ」 「菜織ちゃん・・・」 菜織はちょっと恥ずかしそうに頷くと壁の時計を見る。 窓の外を見ると既に日は沈み、街は宵闇に包まれつつあった。 「あれ、話に夢中になっていたらもう、こんな時間ね・・・ そろそろ私はお暇させて貰うわ。 乃絵美、正樹、コーヒーごちそうさまね」 と言いつつ扉に向かいかけた菜織は、何かを思いだしたようにふと立ち止まる。 「・・・そう言えば乃絵美、一つ言い忘れたことがあるけれど」 「何?」 「今まではずっと乃絵美に負けっ放しだったけれど、今度は勝ってみせるわよ」 「菜織ちゃん、今度って?」 「決まってるじゃないの!アタシ達の『孫』よ! 今度という今度は絶対に渡さないからね!」 菜織の言葉に乃絵美はクスリと笑みを浮かべた。 「私も、絶対に負けないから」 「よーし、それじゃ勝負よ」 「うん」 「どうやらアタシ達の戦いはまだまだ終わらないみたいね・・・ じゃあね」 からんからんからん・・・ やって来たときと同じように軽やかな音と共に菜織は去っていった。 そして再び静寂の中に、乃絵美と正樹の二人は取り残される。 「乃絵美・・・」 「何、お兄ちゃん」 「菜織に言われたから、という訳じゃないけれど・・・ 俺達の人生ってまだ半分位は残っているんだよな」 「うん、そうだね・・・」 「今更という気もするんだけれど・・・ これからの乃絵美の残された時間、俺と一緒に過ごしてくれないだろうか?」 「・・・お兄ちゃん、それってひょっとして・・・」 正樹は照れくさそうに頭を掻いた。 「その・・・俺としては一応、プロポーズのつもりなんだけれど・・・」 ぐすっ・・・ひっく・・・ 「乃絵美?」 「・・・お兄ちゃん酷いよ・・・ずっと、ずっと、私待っていたんだよ・・・ お兄ちゃんがそう言ってくれるのを・・・ オバサンになるまで待っていたんだよ・・・」 「・・・ごめん・・・」 正樹はそっと泣きじゃくる妹を胸に抱いた。 「・・・なぁ乃絵美、今度二人で何処か旅に出ないか?」 「・・・うん」 「・・・俺としてはその、新婚旅行のつもりなんだけれど・・・分かってる?」 「・・・もちろん・・・分かってるよ・・・」 「黄昏」(了) |
| あとがき 今回のSSはちょっと今までと趣向を変えて、「乃絵美といっしょ2」に向けて現在執筆中の新作の予告編という形で暫定版としての発表となりました。 いきなり40代の二人です(苦笑) でも描いている最中は不思議と違和感を憶えなかったのですがどうでしょうか? 自分としては「乃絵美」は妹キャラではありますが、本質的な属性は「母親」だと思っていますので、今回はそっちの方で攻めてみました・・・ 何だかファンの方の反応が恐いです(笑) なお「家族の肖像」シリーズはこのエピソードがプロローグであり、エピローグであるという構成で全3章の予定です。 残る2章については、乃絵美と正樹中心のゲーム本編直後のエピソード(18禁)と真奈美の娘である真沙美のエピソードを予定していますが・・・本当に間に合うんでしょうか?(汗) では、残り2章はイベントでの新刊でと言うことで・・・ |